はねしろにっきちょう

創作してる人の至極プライベートな独り言。

声劇脚本「痴人の愛」

毎日毎日過眠で十時間以上眠っていると、如何せんブログに書くことが無い。昔の愚痴を引っ張り出す事しか出来ない。
それではあまりにもあまりにもなので、特に記事の内容が思いつかない日は昔の作品を引っ張り出そうと思う。

あくまで脚本を発表という形で手放した人間の独り言だ。
声劇脚本として使用する際は気に留めず、その場その場で素敵な物が出来上がっていればそれでいいのだと思う。私もそれが一番嬉しい。


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声劇脚本「痴人の愛」。
谷崎潤一郎氏の同名作のオマージュ、と言えば良いのだろうか。
とにかく谷崎潤一郎氏の「痴人の愛」を読んで思う事がある、私達と同じ視点に立っている人達のお話だ。
「あの本(谷崎氏の痴人の愛)からどうしてこういうお話が?」と聞かれる事が多々ある。書いてる人間が違うのだから、そりゃ違うだろう。
私はこういう作品を書くのが好きだ、書いている私自身が先人達の書いた物語が好きなのだから。だからこそ先人に習うだけのお話を発表する気はない。
現代劇、男性二人、女性二人。台詞比が大変悪いのがウリ。

登場人物は男性の国語教師樋本と、女子高生陽菜と、陽菜のクラスメイト二人。
女子高生陽菜が自身のクラスで国語の授業を受け持っていた樋本に長年片想いをしていて卒業のその日、思いをぶちまけに行くのがこの話の本筋だ。

恐らく「羽白深夜子さんの脚本」をインターネットの海で少々目に留めてくれる人が増えたのは、この作品が切っ掛けだった様に思う。
私の作品を知った切っ掛けは、この作品が切っ掛けだったという方が多いのではなかろうか。
発表から数年経った今でも、「痴人の愛が好きです」と仰って頂く機会が多い。大変ありがたい。
だからこそ台詞比が悪い、役者が均等に参加する事が出来ないのが大変心残りなのだが、この作品の形としてはこれ以上の改善策は私には解らない。
自分が居ない空白の時間を楽しんだり、唯々芝居を聞きたい方をお誘いするのも良いのかもしれない。


このお話、「あくまで創作だから」という言葉が一番しっくりくる作品だと思っている。
常々ツイートしているが私はこの作品に登場する「樋本孝」を大変気に入っている。創作の中でなら、大変良い男だと思っている。
作中あくまで自身に長々片想いをしていた陽菜を保身の為突き放し、あまつさえ数年後の約束をチラつかせる、大変卑怯な男だと思っている。私は其処が良いと思っている。
実際居れば出会い頭に頭をかち割りたい様な男だが、「創作だから」存在が許されている様な人間。だから、それがいい。
男性役者諸兄には是非、一度こんな悪い男になって欲しい。


この「痴人の愛」を発表してみて面白かったのは、樋本は「役者によって出てくる人物が違う事」、対して陽菜は「役者が違えどさして印象の違いは無い」事である。
無論どちらが良いという訳でもなく、そもそも一素人の所感だ。

「樋本孝」は上記した通りの狡い人間だ。狡い人間ではあるが、彼の社会的な地位、一生徒である陽菜の心境を思えば、まあまあ模範的な回答でもあるのだと思って書いている。
それに「当人の心境」を混ぜて「狡い男」にするのか「清廉な教師」にするのか、一切は担当される役者に一任している。
どちらも出来る様に書いたつもりだし、実際色々な「樋本孝」を見せて頂いた。一心不乱に自己を訴える陽菜を精一杯諭す樋本孝がいれば、世界史準備室で喫煙している樋本孝もいた。
この脚本、メインの舞台は「世界史準備室」となっているが、樋本孝がどの教科の担当教師なのか、はたまたどれ程教師という職業に入れ込んでいるのかは脚本内で明言していない。
私は国語教師樋本はこの世界史準備室を管理する権限を持っていない、という想定で書いていた。あくまで想定だ。
勿論準備室の鍵を管理していて自身の庭にしていても構わないし、拝借して入り浸っていても構わない。勿論そこで喫煙をしていても、なんなら酒を持ち込んでいても脚本上では全く問題ない。倫理、道徳的にどうあれ、とにかくこの脚本には書いていないのだから。勿論突飛な事をしたいのであれば同じ場に居る役者への心遣いはあって欲しい、とは個人的には思っている。
教師というある種聖職者をどう演じるか。その人物は、一生徒からの一心不乱の好意をどう受け取り、どう躱すのか。チラつかせる約束は、果たして本意なのか嘘なのか、全てを担当される方に一任している。
今日まで私が聞かせて頂いた「樋本孝」は、似通る事はあれど全く同じ物を二度と聞いた事が無い。大変満足している。

その対極が「福田陽菜」だ。
先程から繰り返している通り、「一心不乱に好意を伝える少女」として確かに書いた。担当される役者さんの実年齢問わずほぼ、「一心不乱に好意を伝える少女」の枠から外れた陽菜を見た事が無い、断言できる。
実年齢。生きて来た経験値。私は芝居をする上でどうあっても切り離せない物だと思っている。そしてその傾向も違いも楽しみの一つに数えている。
ただただ、面白いなあ、と思っている。勿論「一心不乱に好意を伝える少女」であるからこそこの「痴人の愛」は、後半の樋本孝による説得と自己主張の台詞は成り立つのだけど。真っ直ぐ行って右ストレート!を此処までまざまざと見続けた本もこの本、福田陽菜というこの人間の役限りだと思う。
正直な話、ここまで皆一様に脚本を遵守して下さるとは思って居なかったのだ。
斜に構えた陽菜を見た事が無い。三年という長い時間を掛けて愛情の捻じ曲がった陽菜を見た事が無い。皆一様に声を荒げて、泣き叫んで、好きだ、どうして応えないのかと糾弾する。
この福田陽菜という人間を演じてくれた極々親しい方に、「どうしてそう演じたのか」とたまに訪ねている。返ってくる答えは「女子高生だから」「まだ若いから」と、大体がこう返る。
一人だけ「こう演じて欲しいから、こう書いたのではないのか?」と返答より先に逆に問い返された事もある。滅茶苦茶笑った後、そうだよと肯定した。
卒業という、立ち去る側からの暴力を、年齢という前提条件があって許される暴力を、こんなにも多数の方が許容して形にして下さっているのかと思うと、つくづく芝居とは面白いなあと思う。
その一心不乱を、あの脚本の上で成り立つ暴力を、私は一概に正しいとも、間違えてるとも言わない。でも、多々見せて頂いた「樋本孝」の芝居と同様に、色々な形で彼を見せて頂いたからこそ、「福田陽菜」にも多数の正解と抜け道があるのだと思う。
手前味噌だが、私は自分の書いた役の中でこの「福田陽菜」を演じるのが一番苦手だ。出来れば今後演じたくないとすら思っている。
単純にどうあっても教師という枠から外れようとしない樋本孝という人間を相手どるのが一番苦手だ。だから樋本孝という役柄が好きだ。
私の創作は私の理想を濾してどうにか形にして、そうして作っている。私の理想のある種の集大成であり、私が絶対に見れない物を見せてくれるのが、福田陽菜という女の子だ。


さて、この脚本には出番こそ少ないものの、もう二人人間がいる。高田由紀と野合久信。陽菜のクラスメイト達。
久信は陽菜を気に掛けており、由紀はその久信の幼馴染。

この本は見ての通り、「野合久信からの福田陽菜への好意」を明言していない。(確かサークルの中での、脚本完成時のテスト段階では明言した様な気がするが、まあ、それは置いておく)
それでも大半が好きな女の子を探しに教室を出、世界史準備室のドアを「陽菜」と叫びながら、走って来た勢いに任せて開ける。この「陽菜」という台詞にはエクスクラメーションマークがついているから。
そして陽菜と話していた樋本を、大抵の久信は樋本を警戒しながら、あるいは牽制しながら、会話は続いて行く。
樋本孝という人間とある種対極に置いた少年は、常々勇ましく何処までも正しく、好きな子を心配し追い掛けて校舎を駆け回ってくれる。脚本の中に明記されていないそれが、私はとても嬉しい。

嬉しいからこそ、台詞を、沢山の出番を与えられなかった罪滅ぼしとして一つ。
久信が校舎という決して狹くない環境下で福田陽菜を探し、見付ける事が出来るのは。偶然かもしくは、「福田陽菜の大声を聞いていたから」、恐らくこのどちらかになるだろう。もしかしたら久信は沢山の空き教室を「陽菜」と、懸命に叫びながらドアを開けまくっていたのかもしれない。それも良い。
陽菜が大声をあげるだろう台詞から、久信が世界史準備室にやってくるまでにまず時間がある。そして私はト書きで、野合久信の物であろう足音に樋本が気付いている旨を書き入れている。
野合久信は本当に、あのタイミングで、走ってやってきて、その勢いで、世界史準備室のドアを開けているのだろうか。
これも明言しない。脚本には何も書き入れていないからだ。私が野合久信という人間の人生を書き表せたのはただあれだけの台詞だった。
野合久信という役を担当される方へ一任したい。貴方が演じた野合久信が、一芝居、一見世物としての正解であって欲しいとは常々願っている。
台詞の数が少ないからこその自由意志、声劇という大らかな場の、たった一役。久信が陽菜を見つけるタイムラグ。大いに使って楽しんで欲しい。

その久信より更に台詞数が少ないのが高田由紀だ。
私は彼女の事を非常に気に入っている。幼馴染である久信を応援しているのか、そうでないのか、中途半端な位置でフラフラと久信に突っかかり、人を好きになるという事を人を傷つける事と同義に括る彼女を大変気に入っている。
そうして同義に括る様になってしまったのは果たして彼女の経験則なのか、久信という人間を見ていての純粋な感想なのか、ならば何故彼女は久信の歴代の恋愛をベラベラと宣える程に久信を見ていたのか。曰く「賢明な傍観者」と締めた後の呟きは何なのか。時折薄っすらと彼女の過去を滲ませる方がいる。大変好ましく見ている。
それでも彼女がこの物語の中枢に関わる事は無いまま、彼女の人生の一端は終わる。彼女がこの脚本上の出来事を、数年後に思い返す日があるのか、無いのか。
この作品の形としてはこれ以上の改善策は私には解らない。冒頭でそう書いた。そう割り切る事が出来たのは、一重に台詞数が最も少ない彼女のお陰だと思っている。
そもそも冒頭で会話するシーンがあるが、高田由紀と福田陽菜は親しいのだろうか。少なくとも一年、野合久信からの好意に気付かず樋本孝に傾倒していた福田陽菜を、高田由紀はどう見ているのだろうか。少なくとも一年、クラスメイトとして二人はどう過ごして来たのだろうか。
出番は少なく、しかも冒頭のみ。福田陽菜と樋本孝は彼女の意等介さずに世界史準備室で語り、そこにやはり彼女の意を介さないだろう野合久信がやってくる。
名前すら挙がらない、冒頭のみで持論を並べるだけの彼女。書いた人間である私自身も、彼女の過去も未来も測りかねている。それが楽しいから、彼女を気に入っている。


長々と書いてみたが、常々、今日までこの脚本に触れてくれた方、演じてくれた方に助けられている作品だと思う。
ヒロイックという共通認識。英雄的な様、雄々しい様。こうあるべきだという認識か、はたまた「別の誰かがこうやっていたから」という経験則。常々興味深く見させて頂いている。

発表してみて良かった作品だと、今では胸を張って言える。私にとっての楽しい事を数多く齎してくれた。
作品を発表する事は何も楽しい事ばかりではない。でも、それほど詰まらない事で溢れている訳では無いと、私に教えてくれたのがこの作品だ。


この作品、続編を小説で発表しようと細々準備を続けている。短編集として発刊するうちの一つに、この作品の私なりの顛末を添えた。
とりあえずは電子書籍での発刊を考えている。電子書籍として作品を発刊するのは初めてなので、無料サンプルに此方を選定した。
何度でも言うが、あくまで私なりの顛末であり、貴方が演じて下さるこの脚本の登場人物達とはなんの関わりも無い。それでも気に掛けて下さる事が有れば、是非お手に取って欲しい。