はねしろにっきちょう

創作してる人の至極プライベートな独り言。

声劇脚本「apartment」

今日も書く事が無い。ので、声劇脚本の話をしようと思う。

あくまで脚本を発表という形で手放した人間の独り言だ。
声劇脚本として使用する際は気に留めず、その場その場で素敵な物が出来上がっていればそれでいいのだと思う。私もそれが一番嬉しい。


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声劇脚本「apartment」。アパルトメント、と読む。

先日ブログに書いた「痴人の愛」と違い、此方はほとんど使用報告を見た事が無いと思う。
個人的には一番のお気に入りで、時々ごく親しい友人達と配役をとっかえひっかえして読み合せている。


独身会社員の泰成と、隣人の弥生子。泰成の同僚の紀と従兄弟の潤一郎。泰成と同じアパートに暮らす血の繋がらない親子の憲司と鏡花、憲司の妹である千晶、弥生子の兄の四季。
関係が無い様で少しずつ繋がっていく八人の暮らしを、どうにか一時間程度で収めた話だ。


この脚本、声劇で無茶苦茶使いづらい。というのも、作中華々しい出来事があるでもなく、皆当たり障りなく会話するだけで、時間は刻々と淡々と経過する。その癖時間経過、環境の変化という到達点が設定されている。
その作中の時間経過の指針は季節感と「潤一郎と鏡花の大学受験の様子」でしか明言しておらず、唐突にこの二人が大学卒業後の話をし始める。役者の想像力と、聞く方が居ればそちらの想像力と、多大に必要になる。

一番に書きたかったのは人の寂しさと表情だった。離別や進展の中で当たり障りのない会話を繰り返して、時間の経過で覗く表情の変化が書きたかった。
例えを挙げる上で一番解りやすいのは、「娘の大学進学を控えた憲司」だろうか。
憲司と鏡花の親子は血が繋がっていない。正しく表記するなら「遠い親戚」に当たる。それでもこの二人の家族としての関係は良好で、「傍から見ていて清々しい程、良く出来た親と子」という台詞すらある。
この台詞通り、途中鏡花が進学の為憲司の元を離れても尚、鏡花から憲司へ「お父さんと縁が切れるのは寂しい」と言う台詞がある。憲司はこれに「縁が切れる訳が無い」と返す。
憲司は作中あくまで娘を見送る父親であり、鏡花の進学は、憲司の庇護から鏡花が離れる日は作中刻一刻と迫る。徐々に近づくその時に向けて、そしていざ鏡花が憲司の元を離れて、恐らく心境が全く変わらない事は無い筈で。多少なりとも表情の変化はあるのだろう。
役者にとっては一時間弱の出来事であっても、作中は複数年を数える。
緩やかではあるが、はっきりと、微々であろうと変化し続ける心境と、それに伴う表情の変化が書きたかった。


変化の機転、その決定打を出来うる限り書かなかった。
憲司と鏡花の関係で言えば、「鏡花が進学の為に家を出るその日」を敢えて描写していない。
例に挙げた憲司と鏡花の以外の登場人物達も、心境と状況は刻々と変わり続ける。
唯一心境が変化する機転と結果をはっきり書いたのは、千晶と潤一郎が紀をシェアハウスに誘うシーンと、泰成と弥生子の二人、泰成が弥生子の連絡先を強請り、弥生子はそれを突っぱねる、そのシーンのみ。
弥生子は自身が立ち上げる喫茶店の名前を「イチゼロニ」と、泰成が知っておりかつ弥生子を連想できる言葉にしている。泰成に伝えはしないものの「泰成が弥生子の喫茶店を訪ねる」冒頭と最後のシーンに繋がる大切なシーンだ。
このシーン、「偶々出会い、合鍵を得、互いの家に入り浸り、泰成は弥生子をただの同居人と言い放ち、それを聞いた弥生子は泰成に言えない事が出来た」と、それまでのシーンで積み上げた情緒と二人に関わる紀との関係性が無ければ、唯々泰成がヒステリックに弥生子の頬を引っ叩くだけのシーンになる。
ただし、情緒さえあれば転じて「二人だけの関係性」が剥き出しになるシーンであり、最後のオチを非常にスッキリ決める事が出来る。そして恐らく同じ物は二度と存在しない。楽しい。

千晶と潤一郎、千晶の庇護が切っ掛けで作中恋人同士に発展する二人に関しては機転がはっきりしていない物の「千晶が潤一郎の呼び方を徐々に変える」という言葉の明確な変化がある。
千晶側は変化があろうと、「十歳年下の異性」である潤一郎への態度を一貫しており、潤一郎は徐々に「千晶と今後一緒に暮らす為に」準備を始める。潤一郎の準備も苦労も全く脚本の中に明記されていないものの心境を変化させる必要があり、千晶に関しては態度を明確に、しかしシェアハウスを提示された時点でがらりと変える必要がある。
その二人と性別と年齢の関係性を逆転した紀と鏡花は、初対面から恋人、シェアハウスの仲間になるまでと緩急自体は緩やかだが、その分二人が関わるシーンを最も少なくしている。
関連はない物の、同性の親戚から恋人を連れての同居人になる。読む度にこの四人の関係性の違いと緩急をどう表現して貰えるのか楽しみにするのが、すごく楽しい。

機転、という意味では恐らく、作中最も表情の変化を表現するのが最も安易で最も難しいのが紀と四季の二人だと思っている。
紀は「顔の綺麗な男性」であり、作中彼の寂しさに起因する原因は此処と潤一郎の存在にある。しかし声劇脚本という媒体の都合、それは聞き手側には原因が全く伝わらない。潤一郎と暮らしていた楽しい時間と、寂しさ故部屋から立ち去ろうとする弥生子を引き留めるさり気なさと、鏡花に出会い彼女に縋るさもしさと、潤一郎にシェアハウスに誘われた際、嬉しさで泣き出してしまう彼と。穏やかな脚本だからこそ全てを当たり前に備えて、作中の、他の役者が作り上げた日常に溶け込まなければいけない。
対して四季は、彼の機転と寂しさは常に二人の妹が起因する。
弥生子との邂逅は彼女に突っぱねられるワンシーンのみで、美代はそもそも作中に台詞が存在しない。家出していた弥生子が四季の元、実家に戻って来た際も、存在しない妹と台詞の無い妹を自身の台詞のみで存在と対面を知らしめなければいけない。
加えて「あの子(美代)と生活していく自信がないのでは」と糾弾される。そういう兄ではないと、一人で、多くない台詞の中で四季という人間を作らなければならない。
どちらも芝居に触れていれば表現自体は出来るだろう。しかしそれらは、聞いている人間が文字から取る印象と合致させることが出来なければいけない。
この作品は人との薄い関係性で、縁で、他の役者の芝居にも影響を与える。例えば四季が少しでも薄情な人間に聞こえれば、「何故弥生子は泰成ではなくこの兄の元へ帰る事を決めたのか」違和感が残る。紀が鏡花と関係性を築けなければ「どうして鏡花は初対面で年上の男に連絡先を教えたのか」違和感が残る。
あくまで一人間を表現しながら、役者は他者の芝居を聞いて、調整して、表現する必要がある。特に紀と四季の二人は顕著だと思う。楽しい。

その点鏡花と潤一郎は、後半、自身の長台詞辺りから他者を巻き込み芝居を展開させることが出来る様に作ったつもりだ。
庇護され続けた鏡花は紀に手を差し伸べて、偶然出会った泰成と弥生子を繋ぐ。庇護される事が苦手だった潤一郎は千晶と紀に居場所を提供する。
庇護される子供だった二人が作中の時間経過を経て、不器用な大人達に手を差し出せる様になる。脚本という道筋があるからこそ書ける未来をどう表して貰うのか、その未来にたどり着く為にどう道を進むのか。役者が変われば必ずアプローチが変わる。この脚本で最も気に入っている点だ。


一人間を表現する上での最低限の責任。それさえ持っていれば、他者が持っていると信じる事が出来れば、この脚本の登場人物達は大変多弁で我儘な人間になる事が出来る。私はそれが楽しい。
淡々と過ごしていた泰成は気まぐれに生き倒れた弥生子を匿い、弥生子に振り回され紀に諭され鏡花に出会い弥生子をもう一度見つけ出す。
人をもてなす事が好きなのに不器用な弥生子は、自身を探した兄を突っぱねながら居場所を見つけ、兄の元へ帰り居場所を作り出す。
生き方が解らなかった紀は潤一郎、泰成、弥生子を見送り、失意の中で鏡花に見付けられ、彼が潤一郎に掛けた愛情は同居の誘いという形で返ってくる。
庇護され続けた潤一郎は一度は紀から離れるも、千晶と共に暮らす事を決めた時に心には紀がいる。
同じ様に庇護され続けた鏡花は縁を繋ぐ為に憲司の元へ帰る。自身が繋げた泰成と弥生子という縁を知らないまま。
妹を探し続けた四季の元には、少し自立した妹とランドセルを投げ出す妹が帰ってくる。
憲司は縁が切れる事は無いと当たり前に宣い、当たり前に暮らしている。

誰も彼も当たり前に暮らし、生活し、何気ない一言が人の心と暮らしを変える事がある。その来らしを丸ごと入れる器、という意味でアパルトメント。アパート、集合住宅の名前を付けた。
創作だからこそ、なのかもしれないが。当たり前に何かが変わる瞬間を書きたいと常々思っている私らしい脚本にはなったかなと。何度も言うが気に入っている。