はねしろにっきちょう

創作してる人の至極プライベートな独り言。

作品を作る上で出来ない事。

今日は少々ややこしい話をする。
このブログはあくまで私の頭の中を整理する為に、正直に書き出す為に書いている物であり、世界中の誰にも向けられていない。ただ、発信する為に使っている場所が全世界に公開されているそれだけだ。
何かあったと言えばあった。私自身に降りかかった事態ではなくて友人に。インターネット界隈でお芝居をしている方ではない。
それで、話を聞いて、ブログでこの話をしようと思い立った。

私は音声作品を作る際、「役者公募は行わず全て依頼をして制作する事」「締め切りを設定しない、ないし数か月~半年以上の締め切りを設定する事」を絶対だと、自分で決めている。勿論作品の形によりけり、幾つか例外があるが。
前者の話、「役者公募は行わず全て依頼をして制作する事」、これについて話したい。


一番大きな理由は「私自身が身体が弱く制作に掛けられる時間が非常に限定されている事」だ。
私自身どうにか対策を練ってはいるものの、当たり前に暮らす、それで精一杯な事が多い。創作に当てられる時間と余裕は年々加齢と共に減っている。
他者と一緒に創作をする上で、多大に迷惑を掛けかねない。現に多々お掛けしている(と私は思っている)が、現状皆快く受け入れて下さっていて大変ありがたい。何かあれば遠慮なく教えて欲しい。

日常垢、鍵垢をフォローして頂き、私の生活事情を何となく覗いて頂いた上で、私からも芝居やお人柄を拝見した上で、制作したい物について頭出しをする。依頼では無くてあくまで頭出し。
作品の雰囲気、概要、キャラクターについて、収録形式、締め切りについて、制作にお時間を頂く事について、可能な限りこの段階で提示する。とにかくこれ!と脚本をお渡しする事もある。
そうしてご理解を頂いて、初めて「依頼」という形で声を掛ける。詳細な締め切り、必要であれば芝居の方針、可能であれば他のキャラクターの音声、諸々をお渡しして収録に挑んで頂く。

界隈の制作に慣れていらっしゃる方は「工程が多い」とお思いの事だろう。
私が人柄を拝見する事と、私を見定めて頂く事が絶対なのだ。
しかも私自身の体調が主で、スケジュールを先延ばしにする事は絶対にありますと、明言した方がいいのかもしれないと最近もっぱら悩んでいる。
要するにビビりで臆病なのだ、ものすごく。そもそも作品を発表する事自体が怖い。この辺りは多分改めてブログに書く。

纏めれば「この工程に役者公募という工程を足して、他者の音源を聞いて、選定して、発表して、と、使う余力が無い」と言えば伝わるだろうか。伝わって欲しい。
公募を当たり前に行っている企画を見ているとそれだけですごい……と語彙が無くなる。語彙が無くなる位には尊敬して作品を楽しみにしつつ、自分の事が更に嫌いになる。まあ、それはどうでもいい。


理由がもう一つあり、此方が今回の本題に当たる。
私は十年数年前、タレントの養成所に通っていた。高校を卒業してすぐ入所した。両親から出された条件は学費免除を狙ったオーディションでの特待生入学。どうにか叶えて入所出来たのに、入所してすぐ、自分に商品価値が無い事に気付いた。
幸い講師の方にアドバイスを頂き、映像より舞台向きである事、そして脚本の制作に向いている事に気付かせて頂き、卒業から十年以上経っても毎日連絡を取る同期、友人が出来た為、養成所への入所は全く以て全てが無駄、という訳では無かった。無駄どころか私の人生の転機だったと今も思っている。

恐らくこの時の経験が元になっているのだと思う。
私は「オーディション」「選考」「採用」「有名」「無名」という言葉を自らの、私の趣味に持ち込むのが大嫌いだ。
どれもこれも、言葉自体は悪い事ではない。寧ろ前者三つは作品制作を円滑に進める便利な言葉だと思っている。他者を選び出す事が出来る方々を、強い方だな、と思う。
数日前の記事でも「趣味」という言葉について触れたが、あくまで私の趣味だ。他者に倣う必要も、界隈に倣う必要も、そして、私が界隈を貶す必要も、どれも無い。
私が嫌いなだけなのだ、それだけはどうか解って欲しい。常々ビビりである。

私にとって「オーディション」「選考」「採用」という言葉は、収入に、生活に直結する言葉だ。
養成所に居る最中幾つかそういう言葉に心を躍らせて参加した芝居がある、片手で数えられる程度だったが、仕事がある。表現者を生業に生きていくなら、避ける事が出来ない、生活する為に生きていく為に必要な、乗り越えなければいけない緊張感そのものの言葉なのだと、今も思っている。
だから私はこの三つの言葉を使えない。この三つの緊張感を乗り越えた先に私が表現できる事は、趣味の一つとして、他者に与えられる事は何だ、共有できる事はなんだ。
そう考えたら、もう、私にはこの言葉が使えなかった。


何度も言うが、そうして人を選び出す手段を、悪く思っている訳では決して無い。
作品を効率的に制作する一手法、立派な手段だ。それを選べる方をすごいなあと思っている。語彙力がまた下がった。
そして、そうして選ばれる為の世界で生きている友人後輩、諸先輩方を心の底から尊敬している。
私は耐え切れずに逃げてしまった。だからこそ背を向けて逃げ続けなければいけない言葉が増えてしまった。
小さい頃からテレビが好きな子供だった。気に入ったバライティ番組をビデオに録画して、何度も何度も繰り返して見た。テレビの向こうの世界に憧れていた、ありきたりな子供だった。
逃げはしたが、趣味という形で何かを発信し続ける事を選んだ癖に、逃げ続けなければいけない事があるのは酷く不便だと、時々自分が心底嫌になると、この記事はそういう懺悔だ。

「有名」「無名」の二つは単純に、この言葉を信じれば私の目を曇らせる言葉だと思っている。
人と話している際に軽いノリで使う事もたまにはあるが、まあ、ノリで出た言葉だと、気負わないで欲しい。
界隈という人が多々溢れる場にはついて回る言葉だが、私は私の見た芝居で、聞いた芝居で、感じた人柄だけを信じていたい。


他の方の役者公募に参加するのは滅茶苦茶大好きだ。ただ私は如何せん収録に時間がかかる。一つの台詞を六十、七十と録り直す事はザラにある。
つい最近どうしてもこの世界観に居たい、と、何度も世界観を確認して提示されている音声を聞いて、何度も録り直して、迎えて下さった作品があった。やっぱり滅茶苦茶に大好きだと思った。
諦めた私には苦労が想像がつかないからこそ、何処までも公平で、力量を図った上で、世界観に相応しいかどうかを定めて下さる。そう信じる事が出来る方の作品の選考にはいつだってお邪魔したい。
無論大好きだからこそ、自分の体調を鑑みた上で、ご迷惑を掛けない様に、何方かの作った愛した世界に今後もお邪魔出来ればと思っている。


ここ数年で時折、「作品を一緒に作りたい」と仰って頂く事があった。
大変ありがたい言葉だが、私はこういう理由で、きっと今後も役者の公募をする事は無い。サークル外で制作を何方かと共にする事も無いだろう。
と言いつつ最近はガヤ音声の制作に興味が出て来た。自分の負担と諸々と鑑みて作ってみても面白いかもしれない、程度だが。
制作も、何方かとしてみたいな、と思う事は多々あるが、ウェイトが酷い偏り方をすると思う。ので、今は自信が無い。

それでも、私が恐々声を掛けて、作品に参加しても良いよ、と仰って下さる方が一人でもいる以上、私は嫌いな言葉から全力で目を逸らして、発信したい事を模索し続けるしかない。
なんだかんだ好きだから辞められないのだ。私一人では出来ないのだ。私一人では、作りたい世界に限界がある。
だから、不便な自分から目をそらし続ける事しか出来ない。